
北野坂を登り始めて5分で、私はすでに後悔していた。
友達4人で神戸に来たのは金曜の昼過ぎで、三宮駅を降りたときの空気がなんだか甘い感じがして、ああ港町ってこういう匂いするんだって思った。誰かが「異人館行こうぜ」って言い出して、スマホで調べたら北野坂っていう坂道を登ればいいらしい。簡単じゃん、って。
でもこれが想像以上にきつい。
最初はまだ余裕があって、道の両脇に並ぶカフェとか雑貨屋とかを冷やかしながら歩いてた。ショーウィンドウに飾ってある謎のアンティーク風ランプとか、入り口に置いてある手書きのメニューボードとか。「このパスタ1800円もするんだ」「観光地価格やん」とか言いながら、わいわい登っていく。坂の途中で、レンガ造りっぽい建物の前で記念撮影してる中国人観光客のグループがいて、私たちもそれに便乗して自撮りした。後で見たら全員顎引いててブサイクだったけど。
途中でユウタが「俺、昔ここ来たことあるわ」って言い出した。小学生のとき家族旅行で来たらしい。「でもさ、そのとき異人館の中入ったかどうか覚えてないんだよね」って。記憶ってそんなもんだよなって思う。私も修学旅行で京都行ったはずなのに、金閣寺見たかどうか自信ない。覚えてるのはバスの中でみんなでお菓子食べたことだけ。
坂を登りきったあたりで、急に視界が開けて、異人館街が見えてくる。
風見鶏の館っていう、屋根の上に鶏の形した風見鶏が乗ってる建物が最初に目に入った。緑色の外壁で、なんかヨーロッパの絵本に出てきそうな感じ。周りには同じような洋館がいくつも並んでて、どれも個性的な色と形をしてる。赤レンガのやつ、白い壁のやつ、尖った屋根のやつ。どれから見ようか迷ってたら、ミサキが「とりあえず有名なとこ行こうよ」って言って、風見鶏の館に入ることにした。
入館料払って中に入ると、ひんやりした空気が肌に触れる。古い木の床がギシギシ鳴って、天井が妙に高くて、なんか自分が小さくなったみたいな感覚になる。部屋ごとにテーマがあって、応接室とか食堂とか寝室とかが再現されてる。家具が全部アンティークで、触っちゃいけない雰囲気がビシビシ伝わってくる。「これ本当に昔の人が使ってたのかな」ってリョウが呟いた。
食堂のテーブルの上には、精巧な食器のセットが並べてあって、なんかの晩餐会の準備でもしてるみたいだった。銀のフォークとナイフが光を反射してキラキラしてる。窓から入ってくる午後の光が、レースのカーテン越しに柔らかく広がって、ちょっと幻想的。「インスタ映えするわこれ」ってミサキがスマホ構えてたけど、係員の人に「撮影禁止です」って注意されてた。
2階に上がる階段の手すりが、触るとツルツルしてて冷たかった。何十年、いや何百年も色んな人が触ってきたんだろうなって思うと、なんか不思議な気持ちになる。寝室には天蓋付きのベッドがあって、「お姫様みたい」とか言いながらみんなではしゃいだ。こういうとき、普段クールぶってる友達が一番テンション上がるのが面白い。
館を出て、次はどこ行く?ってなったとき、誰かが「もう疲れた」って言い出した。
正直、私も同じこと思ってた。異人館って、1個見たら満足しちゃうというか。どれも似たような雰囲気だし、入館料もそれなりにするし。結局、近くのカフェに入って休憩することにした。「フランツ」っていう名前の、これまた洋風な店。メニュー見たら、やっぱり観光地価格だったけど、もうどうでもよくなってた。アイスコーヒー飲みながら、窓の外を行き交う観光客を眺める。みんなスマホで写真撮ってる。
「結局さ、異人館って何が面白いの?」ってユウタが聞いてきた。
うーん、って考えたけど、うまく答えられなかった。建物がオシャレ?歴史を感じる?非日常感?どれもしっくりこない。ただ、ここに来て、坂を登って、古い建物を見て、友達とくだらない話をして、高いコーヒー飲んでる。それだけのことなんだけど、それが何か特別に思える瞬間があるんだよね。説明できないけど。
帰りは坂を下りながら、来るときには気づかなかった路地とか、小さな看板とかに目が行った。夕方の光が建物の壁に当たって、オレンジ色に染まってる。神戸の街が、少しずつ夜の顔に変わっていく時間帯。
「また来る?」ってリョウが聞いてきたけど、誰も答えなかった。たぶん、もう来ないと思う。でも、それでいいんだと思う。

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