
三宮の駅前で立ち止まったのは、靴紐がほどけたからだった。
しゃがんで結び直していると、背後から笑い声が波のように押し寄せてくる。振り返る間もなく、十人くらいの若い集団がわたしの横をすり抜けていった。スニーカーの底が地面を叩く音、誰かのリュックがぶつかりそうになる気配、香水とタバコが混ざったような匂い。全部が一瞬で通り過ぎて、気づいたときにはもう彼らの背中しか見えなかった。
神戸に引っ越してきて三年目の春だったと思う。あの頃はまだ、三宮の夜の空気に慣れていなくて、金曜の夜に駅前を歩くだけで少し緊張していた。賑やかさに圧倒されるというか、自分だけが別の速度で動いているような感覚があった。
さっきの若者たちはセンター街の方へ消えていった。全員が同じトーンで喋っていて、誰が何を言っているのかは分からないけれど、会話全体がひとつの楽器みたいに聞こえる。ああいうのって、どうやったらできるんだろう。わたしが大学生だった頃は、友達と街を歩いていても、なんとなく気まずい沈黙が挟まったりして、あんなふうに途切れずに笑い続けることなんてできなかった。
靴紐を結び終えて立ち上がると、また別のグループが横を通り過ぎていく。今度は女の子ばかりで、五人くらい。みんな背が高くて、ヒールの音が揃っている。一人がスマホを掲げて自撮りをしていて、他の四人がそれに顔を寄せている。シャッター音が三回くらい鳴って、すぐに画面を覗き込んで笑い声が上がる。
そういえば、去年の夏に三宮で迷子になったことがある。
地下街に入ったら出口が分からなくなって、三十分くらいさまよった。あれは本当に焦った。地上に出たときには、知らない商店街の真ん中にいて、どこをどう歩いてきたのか全く思い出せなかった。結局、駅まで戻るのにタクシーを使った。運転手さんに「歩いても十分ですよ」って言われたけど、もう歩きたくなかった。
話を戻すと、三宮の夜はいつもこんな感じで、若い人たちが群れをなして移動している。彼らには目的地があるんだろう。居酒屋とか、カラオケとか、誰かの家とか。わたしにはそういう場所がなくて、ただコンビニでアイスを買って帰るだけだったりする。
信号待ちをしているとき、隣に立った男の子二人組の会話が聞こえてきた。「マジでヤバかったわ」「あれ、絶対バレてたって」って言いながら、ずっと笑っている。何がヤバくて、何がバレていたのかは分からないけれど、二人にとってはそれが今夜一番の出来事なんだろう。青信号に変わると、彼らは走るように横断歩道を渡っていった。
わたしも渡る。でも走らない。
駅前の広場には、まだ人がたくさんいて、待ち合わせをしているカップルや、ベンチに座ってスマホをいじっている学生たちがいる。噴水の周りには、スケボーを持った若者が三人くらい集まっていて、何か相談している様子だった。
神戸に来る前は、もっと静かな街に住んでいた。夜九時を過ぎると人通りがほとんどなくなるような場所。三宮の賑やかさは、最初は疲れるだけだったけれど、最近は少し心地よくなってきた。自分が透明人間になったみたいで、誰にも気づかれずに街を歩けるのが好きだった。
またひとつ、グループが通り過ぎていく。今度は男女混合で、誰かが「絶対ウケるって!」って叫んでいる。笑い声が遠ざかっていく。
わたしはポケットに手を突っ込んで、ゆっくり歩き出した。彼らがどこへ向かっているのか知らないし、知る必要もない。ただ、あの笑い声がもう少し聞こえていればいいのにと思った。
駅の改札をくぐるとき、ふと振り返った。でも、もう誰もいなかった。

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