
金曜の夜、三宮の駅前で信号待ちをしていたら、後ろから大きな笑い声が聞こえてきた。
振り返ると、20代前半くらいの5人組が、誰かのスマホを覗き込みながら爆笑している。女子が3人、男子が2人。たぶん大学生か、社会人1年目くらいだろうか。そのうちの一人が「まじでそれやばいって!」と叫んで、また全員が笑う。信号が青になっても、彼らはそのまま立ち止まって画面を見続けていて、私が横を通り過ぎるときも全然気づいていなかった。
私も昔はあんなふうに夜の街を歩いていたんだろうか、と思う。記憶を辿ると、確かにあった気がする。友達と居酒屋で飲んだ帰り道、どうでもいい話で盛り上がって、駅まで歩くのに普段の倍くらい時間がかかったこと。冬の冷たい空気の中、誰かが歌い出して、それに合わせて全員で変な振り付けをしながら歩いたこと。通行人の視線なんて全く気にならなくて、世界の中心は自分たちだと本気で思っていた。
神戸の繁華街って、特に週末の夜は若い人たちの笑い声で溢れている。三宮のセンター街を歩けば、必ず誰かのグループとすれ違う。カラオケ帰りなのか、ボウリング帰りなのか、それとも単に飲み会の後なのか。彼らはいつも賑やかで、いつも楽しそうで、いつも急いでいるようで急いでいない。
私が最近気づいたのは、その賑やかさって、実はすごく儚いものなんだということ。彼らが通り過ぎた後、街にはまた静けさが戻ってくる。さっきまであんなに響いていた笑い声も、数秒後にはもう聞こえない。まるで最初からいなかったみたいに。
去年の秋、仕事帰りに三宮で時間を潰していたとき、駅前のカフェ「ブルーポート」で窓際の席に座っていた。夜の8時過ぎだったと思う。窓の外を、次から次へと若い人たちのグループが通り過ぎていく。みんな同じように笑っていて、同じように楽しそうで、でも誰一人として同じ顔をしていない。私はコーヒーを飲みながら、その光景をぼんやり眺めていた。
ふと、高校の修学旅行を思い出した。全然関係ない話なんだけど。京都に行ったとき、夜の自由時間に友達4人で河原町を歩き回った。特に目的もなく、ただ歩いているだけで楽しかった。途中で道に迷って、全然違う方向に進んでいたことに30分後に気づいて、みんなで大笑いした。今思えば、あの時間ってすごく贅沢だったんだろうな。
三宮の夜は、そういう「贅沢な時間」を過ごしている人たちで満ちている。彼らは明日のことなんて考えていない。来週の予定も、来月の不安も、全部どこかに置いてきて、今この瞬間だけを生きている。
私が羨ましいと思うのは、その身軽さかもしれない。
年齢を重ねると、どうしても荷物が増えていく。責任とか、立場とか、他人の目とか。夜の街を歩くときも、どこか冷静な自分がいて、周りの目を気にしている自分がいる。大声で笑うことも、急に走り出すことも、なんとなく躊躇してしまう。
でも、あの若い人たちは違う。彼らは何も背負っていない。背負う必要がないと信じている。その信じる力が、あの賑やかさを生んでいるんだと思う。
先月、久しぶりに大学時代の友人と三宮で飲んだ。10年ぶりくらいだったかな。話は盛り上がったけど、帰り道はなんだか静かだった。昔みたいに騒ぐこともなく、普通に駅まで歩いて、普通に別れた。それが悪いわけじゃないんだけど、なんというか、あの頃の自分たちはもういないんだなって実感した。
神戸の夜は、そうやって何度も何度も、新しい若者たちを迎え入れて、また送り出していく。彼らは賑やかに笑いながら通り過ぎて、また次の世代が同じように笑いながら通り過ぎていく。
私はもうあの輪の中にはいない。通り過ぎていく側を見送る側になった。
それでいいのかもしれない。彼らの笑い声を聞きながら、自分もかつてあんなふうに笑っていたことを思い出せるなら。その記憶が、今の自分を少しだけ軽くしてくれるなら。
三宮の夜は、今日も誰かの笑い声で賑やかだ。そしてその笑い声は、また静けさの中に消えていく…だけど。


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