
神戸港の防波堤に腰かけたら、思ったより冷たかった。
彼女が「ねえ、あそこのカモメ見て」って指さす方向を追いかけながら、僕はさっきコンビニで買ったホットコーヒーの蓋を開けた。午後3時くらいだったと思う。平日の昼下がりで、観光客もまばらで、なんだかこの街全体が深呼吸してるみたいな空気感があった。海風が顔に当たるたび、ちょっとしょっぱい匂いがする。潮の香りって言えば聞こえはいいけど、正直ちょっと生臭い。
デートって言葉、僕らはもう使わなくなった。
付き合って3年も経つと、「今日どこ行く?」「別に。散歩でもする?」みたいな会話で自然に出かけることになる。特別な場所じゃなくていい。神戸港なんて何度も来てるし、目新しいものがあるわけでもない。でもなんとなく、ここに来ると落ち着くんだよね。海があるからかな。水平線を見てると、自分の悩みがちっぽけに思えてくる…だけど。
そういえば去年の夏、ここで彼女の帽子が飛ばされたことがあった。麦わら帽子みたいなやつ。僕が必死で追いかけて、途中で転びそうになって、結局海に落ちる寸前で拾えたんだけど、そのとき彼女めっちゃ笑ってた。「ありがとう」じゃなくて、まず笑うんだよ。そういうところ、好きだけど。
今日は風がそこまで強くないから、帽子の心配はなさそう。彼女は髪を耳にかけながら、スマホで写真を撮ってる。何を撮ってるのか聞いたら、「波」って答えた。波。そんなもん撮ってどうすんの、って思ったけど、言わなかった。彼女のカメラロールには、たぶん同じような波の写真が100枚くらいあると思う。
港の向こうに見えるクレーンが、ゆっくり動いてる。あれ、いつ見ても動いてるよな。24時間稼働してんのかな。働いてる人、大変だろうな、とか考えながら歩いてると、彼女が急に「お腹空いた」って言った。
さっきパン食べたばっかりじゃん、って言いかけたけど、やめた。彼女がお腹空いたって言うときは、だいたい「何か食べたい」じゃなくて「どっか入りたい」って意味だから。で、結局近くのカフェに入ることになった。「HARBOR BLEND」っていう、いかにも神戸っぽい名前の店。窓際の席に座って、彼女はアイスコーヒー、僕はさっきコンビニで買ったコーヒーがまだ残ってたけど、仕方なくホットティーを頼んだ。
窓から見える景色は、さっきまで歩いてた場所とほぼ同じ。でも座って見ると、なんか違って見える。不思議だよね。立ってるときと座ってるときで、世界の見え方が変わるって。彼女はストローでカップの氷をカラカラ鳴らしながら、「来週、どうする?」って聞いてきた。来週。来週か。考えてなかった。
「また散歩する?」って僕が言ったら、彼女は「うん」って即答した。
この街を歩くのが好きなのは、たぶん僕だけじゃない。彼女も同じように、特に何もない時間を大事にしてる気がする。観光名所を巡るわけでもなく、高いレストランで食事するわけでもなく、ただ海沿いを歩いて、風に吹かれて、たまにカフェで休んで。それだけ。
カフェを出たとき、空の色が少し変わってた。夕方に近づいてる。オレンジとも青ともつかない、中途半端な色。僕は彼女の手を取って、また歩き始めた。特に目的地はない。このまま歩いて、疲れたら帰る。それだけのこと。
神戸の海風は、相変わらず僕らの間をすり抜けていく。会話が途切れても、気まずくならないのは、この風のおかげかもしれない。音で空白を埋めてくれるから。波の音、カモメの声、遠くで鳴る船の汽笛。
来週もたぶん、同じようにここを歩いてる。そんな気がする…けど、まあ、わかんないけどね。


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