
三宮の駅前で立ち止まったのは、靴紐がほどけたからだった。
しゃがんで結び直していると、目の前を若い人たちのグループが次々と通り過ぎていく。笑い声、スマホの通知音、誰かが口ずさむ歌のフレーズ。金曜の夜8時過ぎ、この街はいつもこんな感じで、私はただ靴紐を結んでいるだけなのに、なんだか自分だけが時間の流れから外れているような気分になる。
立ち上がってからも、その感覚は消えなかった。
居酒屋から溢れ出す暖かい光と、焼き鳥の匂い。センター街のほうから聞こえてくる、カラオケボックスの看板の電子音。若者たちは4人組だったり、6人組だったり、時には10人を超える大所帯だったりして、みんな同じ方向に流れていくわけじゃないのに、なぜか「賑やかさ」という一つの塊になって街を満たしている。私が歩くと、その塊が自然に避けていく。まるで水の中を進む船みたいに。
神戸に引っ越してきたのは3年前の春で、最初の頃は私もあの賑やかさの一部だったと思う。友達と待ち合わせして、適当な店に入って、意味もなく笑って。でも気がつけば、待ち合わせの回数は減り、金曜の夜に一人でスーパーに寄るようになり、こうして靴紐を結びながら人の流れを眺める側になっていた。
別に寂しいわけじゃない…と思う。
そういえば前に、大学時代の友人が「マリノスタウン」っていう架空の街の話をしていたことがある。全然関係ないんだけど、急に思い出した。その街では誰もが主人公で、誰もが脇役で、みんなが同時に物語を生きているっていう設定らしい。当時は「何それ、意味わかんない」って笑ってたけど、今ならちょっとわかる気がする。三宮のこの交差点も、きっとそういう場所なんだ。
私がこうして立ち止まっている間にも、20代前半に見える女の子たちが、キャリーバッグを引きずりながら駆け抜けていった。「間に合う?」「ギリ間に合う!」そんな会話の断片だけが耳に残る。彼女たちはどこに向かっているんだろう。神戸空港?それとも三ノ宮駅から新幹線?
賑やかさって、実は音の大きさじゃないのかもしれない。
静かなグループもいる。カップルが二人、手を繋いで黙って歩いている。でもそれも「賑やかさ」の一部に見える。なぜなら彼らは目的地を持っていて、次の場面を持っていて、この街の夜を消費する権利を行使しているから。私はただ、靴紐を結び終わって、次にどこへ行くか決めていない。コンビニでコーヒーを買うか、それとも本屋に寄ってから帰るか。どちらでもいい選択肢しかない。
フラワーロードのほうから、また別のグループが現れた。男子大学生っぽい5人組。一人がずっとスマホで動画を撮っていて、他の4人がそれに向かって変な顔をしている。彼らの笑い声は、周囲の雑踏に溶けてすぐに消えた。
冬の空気は思ったより冷たくて、吐く息が白い。街灯の光が、その白い息を一瞬だけ照らす。
若い人たちが過ぎ去っていくのを見ていると、自分がこの街の風景の一部になっているような気がしてくる。動かない看板とか、街路樹とか、そういうものと同じ。彼らにとって私は、「そこにいた誰か」ですらなくて、ただの背景。それでいいと思う日もあれば、少しだけ引っかかる日もある。今日はどっちだろう。
結局、本屋には寄らずに帰った。途中のコンビニでコーヒーだけ買って、いつもの道を歩く。振り返ると、三宮の光はまだ賑やかで、若い人たちはまだ笑っていて、私の靴紐はもうほどけていなかった。
それだけの話。


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