
六甲山の中腹まで来ると、街の音が嘘みたいに消える。
ケーブルカーを降りてバスに揺られること十数分、オルゴール館の入口に着いたのは午後2時過ぎだった。平日のせいか人はまばらで、受付のお姉さんが静かに微笑んでくれた。入館料を払って中に入ると、ひんやりした空気が肌を撫でる。窓から差し込む光が木の床に模様を作っていて、なんだか時間の流れ方が違う場所に来たみたいな感覚になった。
最初の展示室には、小さなオルゴールがずらりと並んでいる。ガラスケースの中で静かに佇むそれらは、どれも100年以上前のものらしい。私たちは無言でケースを覗き込んだ。彼女が「これ、鳥の形してる」って小声で言うから見ると、確かに小さな青い鳥が羽を広げたデザインの蓋がついていた。係員の人が近づいてきて、「次の演奏まであと5分ですので、奥の部屋でお待ちください」と案内してくれる。
奥の部屋は思ったより広くて、20人くらいは座れそうな椅子が並んでいた。
私たちは真ん中あたりの席に座った。部屋の中央には大きな木製の箱、というか家具みたいなサイズのオルゴールが鎮座している。ディスクオルゴールっていうらしい。直径50センチくらいの金属の円盤をセットして鳴らすタイプで、初めて見た。彼女は「昔、祖母の家にもオルゴールがあったんだけど、もっと小さかったな」ってぽつりと言った。私の実家にもあったな、小さいやつ。開けるとバレリーナが回るやつ。あれ、今どこにあるんだろう。
やがて照明が少し落とされて、係員の方が説明を始めた。このオルゴールは19世紀末にドイツで作られたもので、当時は富裕層の娯楽だったこと。一枚のディスクに一曲が刻まれていて、取り替えることで何十曲も演奏できること。機械式だから電気はいらないこと。淡々とした口調で語られる歴史が、なぜか心地よかった。
そして演奏が始まった。
最初の一音が鳴った瞬間、部屋の空気が変わった。金属の櫛が弾かれる音は、思っていたよりずっと澄んでいて、でもどこか儚い。ワルツだった。曲名は忘れたけど、聞いたことがあるメロディー。音が空間に広がって、壁に反射して、また戻ってくる。その繰り返しが波紋みたいで、私たちはただ黙って聴いていた。彼女の横顔を盗み見ると、目を閉じていた。
二曲目はもっとゆっくりした曲で、なんだか子守唄みたいだった。音と音の間に、わずかな沈黙がある。その沈黙すら音楽の一部みたいに感じられて不思議だった。外から鳥の声が聞こえる。窓の外の木々が風に揺れているのが見えた。ここ、本当に神戸なんだろうか。街からそんなに離れていないはずなのに、別世界みたいだ。
演奏が終わって照明が戻ると、彼女が「すごかったね」って言った。うん、すごかった。何がすごいのか上手く言えないけど、すごかった。私たちは席を立って、また展示室を見て回った。小さなシリンダー式のオルゴール、鳥のさえずりを再現する仕掛け、自動人形と組み合わせたもの。どれも職人の執念みたいなものを感じる。
ミュージアムショップには、現代のオルゴールが売られていた。彼女が手に取ったのは、小さな木製の箱で、蓋を開けると「星に願いを」が流れるやつ。「これ、いいな」って言いながらも、結局買わなかった。買わなくても、今日のことは忘れないから…だけど。
帰りのバスを待ちながら、彼女が「また来たいね」って言った。
私は「うん」とだけ答えた。山の空気は少し冷たくて、もうすぐ夕方になる。神戸の街の灯りが、遠くにきらきら見え始めていた。オルゴールの音色は、まだ耳の奥に残っている気がする。


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