
神戸の須磨海岸には、夏の終わりになると不思議な静けさが訪れる。八月の最終週、まだ日差しは強いけれど、どこか秋の気配を含んだ風が砂浜を撫でていく。海の家の多くはすでに店じまいの準備を始めており、賑やかだった音楽もスピーカーの向こうに遠ざかっていた。
私が初めてこの海岸を訪れたのは、小学三年生の夏休みだった。祖母に連れられて電車を乗り継ぎ、降り立った須磨の駅は潮の香りに満ちていた。あの日も今日と同じように、少しだけ曇り空で、波打ち際には家族連れよりも散歩をする老夫婦の姿が目立っていた。祖母は「夏の終わりが一番ええねん」と言いながら、砂浜に腰を下ろして、ただ黙って海を眺めていた。私はその横で貝殻を拾い集めていたが、何が「ええ」のか当時は理解できなかった。
今ならわかる。夏の喧騒が去った後の須磨海岸には、独特のやわらかさがある。砂浜を歩けば、足裏に残る湿った砂の感触が心地よく、波音だけが規則正しく耳に届く。海の香りも、真夏のそれとは違って、どこか落ち着いた深みを帯びている。潮風に混じる磯の匂いと、遠くから運ばれてくる焼きとうもろこしの甘い香りが、不思議と調和していた。
海岸沿いには「シーブリーズ・カフェ」という小さな喫茶店があって、私はそこでアイスコーヒーを注文した。店主は無口な中年の男性で、カップを差し出す仕草がどこか丁寧だった。窓際の席に座ると、ガラス越しに砂浜と海が一望できる。氷の溶ける音が静かに響き、冷たいグラスの表面には水滴がゆっくりと滴り落ちていく。
ふと、隣のテーブルに座っていた若いカップルの会話が耳に入ってきた。女性が「来年もここに来ようね」と言い、男性が小さく頷いている。その様子を見ていたら、自分もかつて誰かとそんな約束をしたことがあったような気がして、記憶の底を探ってみたが、はっきりとは思い出せなかった。ただ、その感覚だけが胸に残った。
午後三時を過ぎると、日差しが少しだけ傾いてくる。砂浜に長い影が伸び始め、波打ち際を歩く人の姿がシルエットのように浮かび上がる。子どもたちの声もまばらになり、代わりにカモメの鳴き声が際立ってくる。海はどこまでも広く、水平線の向こうに淡い灰色の空が広がっていた。
散歩道を歩きながら、ふと立ち止まって振り返ると、自分の足跡が砂浜に残っている。波が寄せるたびに、その輪郭は少しずつ崩れていく。消えてしまうとわかっているのに、それでも人は歩き続ける。そんなことを考えていたら、急に哲学者にでもなった気分になって、少し照れくさくなった。
コーヒーを飲み終えて店を出ると、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。夕暮れ時の須磨海岸は、また違った表情を見せる。光が柔らかくなり、すべてのものが優しい輪郭を帯びてくる。砂浜に座り込んで、ただ海を見つめる。波の音が、心の中の雑音を少しずつ洗い流していくような感覚があった。
帰り道、駅へと続く商店街を歩いていると、昔ながらの駄菓子屋が目に入った。店先には色とりどりの飴やガムが並んでいて、思わず足を止めた。ふと、ラムネを一本買おうとして財布を取り出したとき、小銭が床に転がってしまった。店のおばあさんが笑いながら一緒に拾ってくれて、「ゆっくりでええよ」と言ってくれた。その声が、祖母の声に似ていた。
須磨海岸は、夏だけの場所ではない。むしろ、夏が終わってからの静けさにこそ、この場所の本当の魅力があるのかもしれない。喧騒が去った後に残る余韻、波音だけが響く砂浜、そして海の香りに包まれた散歩道。そこには、忙しない日常から少しだけ距離を置ける時間が流れている。
電車に揺られながら、窓の外に流れる夕暮れの景色を眺めていた。神戸の街は、夜の帳が降りる前の、最も美しい時間帯を迎えようとしていた。また来年も、夏の終わりにここへ来ようと思う。そしてきっと、同じように砂浜を歩き、同じように海を眺めるのだろう。それでいい。繰り返される日常の中にこそ、小さな幸せは隠れているのだから。


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