
春の終わりの土曜日、午後三時を少し過ぎた頃だった。神戸の元町商店街を抜けて、高架下へと足を向けた。JRの線路が頭上を走るこの場所は、独特の薄暗さと開放感が同居している。コンクリートの柱が規則的に並び、その間を縫うようにして小さな店が軒を連ねていた。
高架下商店街は、観光地として整備された場所とは少し違う空気を持っている。古い靴屋、雑貨を扱う店、喫茶店の看板が色褪せたまま掲げられていて、時間がゆっくりと流れているように感じられる。彼女は歩きながら、ふと立ち止まって古本屋の棚を覗き込んだ。私も隣に並んで、背表紙を眺める。特に何かを探しているわけではない。ただ、こうして二人で何かを見ているという時間そのものが心地よかった。
頭上を電車が通過する音が響く。ゴトン、ゴトンという規則的な音は、この場所の日常だ。その音に合わせるように、彼女が小さく鼻歌を口ずさんでいた。私はそれに気づいたけれど、何も言わずにただ聞いていた。
少し歩くと、コーヒー豆の香ばしい匂いが漂ってきた。小さな焙煎所が営業しているらしい。彼女が「いい匂い」と呟いて、私の袖を軽く引いた。その仕草が、何だか子どものようで少し可笑しかった。店の前で立ち止まり、ガラス越しに中を覗く。店主らしき男性が、丁寧に豆を選別していた。私たちはしばらくその様子を眺めてから、また歩き出した。
高架下を抜けると、視界が開けて小さな公園が見えてくる。東遊園地ほど広くはないけれど、ベンチがいくつか置かれていて、木陰が心地よい場所だ。彼女が「少し座ろうか」と言って、ベンチに腰を下ろした。私も隣に座る。風が吹いて、木の葉が揺れる音がした。
子どもの頃、祖父母の家の近くにも似たような公園があった。放課後、友達と遊んだ記憶が蘇る。あの頃は時間が無限にあるように思えたけれど、今はそうではない。だからこそ、こうして何もしない時間が貴重に感じられるのかもしれない。
彼女がバッグから小さなペットボトルを取り出して、一口飲んだ。「飲む?」と差し出されたので、受け取って口をつける。少しぬるくなった麦茶だった。それでも、喉の渇きを潤すには十分だった。
ベンチに座っていると、通りすがりの人々の姿が目に入る。買い物袋を提げた年配の女性、イヤホンをつけて走る若い男性、ベビーカーを押す夫婦。それぞれの生活があって、それぞれの時間が流れている。私たちもその一部だ。
彼女がふと、「あのカフェ、入ってみたいね」と言った。視線の先には、高架下の一角にある小さな店があった。「ブルーストーン」という名前の、手作りケーキが評判の店らしい。次に来たときには寄ってみようか、と私は答えた。彼女は「うん」と頷いて、また前を向いた。
公園のベンチに座っていると、時間の感覚が曖昧になる。十分なのか、三十分なのか、よくわからない。ただ、隣に彼女がいて、風が吹いていて、遠くで子どもの笑い声が聞こえていた。
立ち上がるとき、彼女が「あ」と小さく声を上げた。ベンチの端に、小さな猫の置物があったのだ。誰かが置いていったのか、それともずっとそこにあったのか。彼女はそれを手に取り、しばらく眺めてから元の場所に戻した。「誰かが大事にしてるのかもね」と彼女は言った。私もそう思った。
再び高架下へと戻る。さっきとは逆方向に歩いていく。同じ場所でも、歩く向きが変わると景色が違って見える。光の入り方や、店の見え方が変わるからだ。
途中、雑貨屋の前で彼女が立ち止まった。ガラス細工の小さな鳥が並んでいる。「綺麗だね」と彼女が言う。私も頷いた。買うわけではないけれど、こうして眺めるだけでも楽しい。
歩いていると、また電車の音が響いた。今度は少し長い音だった。貨物列車かもしれない。その音が遠ざかっていくのを聞きながら、私たちは歩き続けた。
元町の高架下は、観光地のような華やかさはない。けれど、日常の中にある静かな豊かさがある。そして、二人でのんびりと歩くには、ちょうどいい場所だった。特別なことは何もない。ただ、隣に誰かがいて、同じ景色を見て、同じ空気を吸っている。それだけで十分だと思えた。
帰り道、彼女が「また来ようね」と言った。私は「うん」と答えた。次に来るときは、もう少し暖かい日がいいかもしれない。それとも、雨上がりの夕方もいいかもしれない。そんなことを考えながら、私たちは駅へと向かった。
神戸の街には、こうした小さな場所がたくさんある。観光ガイドには載らないような、けれど確かに存在している場所。そこには、それぞれの時間が流れていて、それぞれの物語がある。私たちの物語も、そのひとつなのだろう。


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