
週末の昼下がり、神戸港へと続く道を二人で歩いていた。特別な用事があるわけでもなく、ただなんとなく「海が見たいね」という何気ない会話から始まったデートだった。電車を降りて駅から港へ向かう道すがら、少しずつ潮の香りが濃くなっていくのを感じる。都会の喧騒とは違う、どこか懐かしさを含んだ匂いに、自然と足取りが軽くなった。
神戸という街は不思議な魅力を持っている。山と海に挟まれたコンパクトな街並みは、歩いているだけで景色が次々と変わり、飽きることがない。高層ビルが立ち並ぶエリアを抜けると、突然視界が開けて海が現れる。その瞬間の開放感は、何度訪れても新鮮な驚きがある。今日もまた、ビルの合間から覗く青い海面を見つけたとき、隣を歩く彼女が小さく声を上げた。「見えた」と。その声には、まるで宝物を見つけた子どものような喜びが含まれていた。
神戸港に近づくにつれて、海風が強くなってくる。潮の香りを運ぶその風は、頬を撫でるように優しく、でも確かな存在感を持って吹いている。彼女の髪が風になびいて、思わず手で押さえる仕草がなんとも自然で美しい。デートといっても、私たちはいつも特別なことをするわけではない。高級なレストランで食事をするでもなく、話題のスポットを巡るでもなく、ただこうして街を歩き、風を感じ、他愛のない会話を交わす。それだけで十分に満たされた時間になる。
港沿いの遊歩道に出ると、視界いっぱいに海が広がった。平日の午後ということもあり、人はまばらで静かだ。ベンチに座って海を眺めるカップルや、ジョギングをする人、犬を連れて散歩する老夫婦の姿が点在している。みんなそれぞれの時間を、この港で過ごしている。私たちも遊歩道をゆっくりと歩き始めた。特に目的地があるわけではない。ただ、この心地よい海風に吹かれながら、二人で同じ景色を見ていたかった。
「この風、気持ちいいね」と彼女が言った。「うん、本当に」と私は答える。会話としては何の変哲もないやりとりだが、この瞬間を共有しているという事実が、言葉以上の意味を持つ。神戸港の海風は、どこか優しい。荒々しい波しぶきを上げる海ではなく、穏やかに揺れる水面から立ち上る風は、街と海が長い時間をかけて作り上げた調和のようにも感じられる。
遊歩道の途中に小さなカフェを見つけて、二人で入ることにした。テラス席に座り、コーヒーを注文する。目の前には変わらず海が広がっている。カップを両手で包み込むようにして持つ彼女の横顔を見ながら、私はこの時間がずっと続けばいいのにと思った。デートという言葉には、どこか特別なイベントのような響きがあるけれど、本当に大切なのは、こういう何でもない瞬間なのかもしれない。
カフェを出て、さらに港沿いを歩く。神戸のシンボルでもあるポートタワーが見えてきた。赤い独特のフォルムは、遠くから見ても存在感がある。「あそこまで行ってみる?」と彼女が提案する。「いいね」と答えて、私たちはタワーの方へと歩を進めた。急ぐ必要はない。この散歩自体が目的なのだから。
途中、海沿いのベンチに腰を下ろして、しばらく海を眺めた。沖には大きな船が停泊している。貨物船だろうか、それともクルーズ船だろうか。遠すぎて判別はつかないが、その大きさだけは確かに伝わってくる。「あの船、どこから来たんだろうね」と彼女が呟く。「どこだろうね。世界中のどこかから」と私は答える。神戸港は昔から国際貿易港として栄えてきた。この港から、そしてこの港へと、無数の船が行き交い、人や物や文化が運ばれてきた。そんな歴史を思うと、今私たちが感じている海風も、遠い国々の記憶を運んできているような気がしてくる。
ベンチから立ち上がり、再び歩き始める。海風は相変わらず優しく吹いている。気温はちょうどよく、歩いていても暑くも寒くもない。彼女の手が自然と私の手に触れて、そのまま指が絡み合う。言葉はいらない。ただ手を繋いで歩く。それだけで、この散歩が特別な時間になる。
ポートタワーの近くまで来ると、観光客の姿も増えてきた。でも不思議と雑踏という感じはしない。神戸という街は、人が多くてもどこか落ち着いた雰囲気を保っている。それはきっと、この街が持つ歴史と文化、そして海と山に囲まれた地形が生み出す独特の空気感なのだろう。
「そろそろ帰る?」と私が聞くと、「もう少しだけ」と彼女が答えた。その「もう少し」が嬉しくて、私は微笑んだ。神戸港の海風に吹かれながら、私たちはまた歩き続ける。夕暮れまでにはまだ時間がある。この気持ちのいい散歩を、もう少しだけ続けよう。二人でのんびりと、ただ風を感じながら。


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