
あの日は朝からやたらと空気が軽くて、なんとなく外に出たくなった。
神戸港のあたりを歩くのって、実は久しぶりだったんだよね。前に来たのがいつだったか思い出せないくらい。でも彼女が「海が見たい」って言うから、じゃあ行こうかって感じで家を出た。別にデートって意識してたわけじゃないんだけど、まあ結果的にそういうことになるんだろうな。午前10時くらいだったと思う。まだ観光客も少なくて、港の周りは静かだった。
海風が思ったより冷たくて、薄手のジャケット一枚じゃ足りなかったかもって少し後悔した。でも彼女は平気そうな顔してて、むしろ「気持ちいいね」なんて言ってる。風に髪が乱れるのも気にしてない様子で、僕の方がなんだか神経質に見えてきて恥ずかしくなった。
波止場の近くを歩いてると、潮の匂いと、あとどこかから漂ってくるコーヒーの香りが混ざって、妙にいい感じだった。港町特有のあの雰囲気って、言葉にするのが難しいんだけど、錆びた鉄と新しいペンキと塩と、全部がごちゃ混ぜになった匂い。僕はあれが結構好きで、たぶん彼女も嫌いじゃないんだと思う。何も言わずに深呼吸してたから。
そういえば昔、大学生の頃に友達とここでバーベキューやろうとして、場所を間違えて全然違うところに行っちゃったことがある。あれは本当に恥ずかしかった。結局その日は何も食べずに解散して、後日リベンジしたんだけど、今思い出しても笑える。あの時一緒にいた友達、今どうしてるんだろう…まあ、どうでもいいか。
彼女が突然立ち止まって、「あそこのカモメ、ずっとこっち見てる」って指さした。確かに一羽だけ、妙にじっとこっちを観察してるカモメがいて、なんだか値踏みされてるみたいで落ち着かなかった。「エサ持ってないよ」って心の中で呟いたけど、カモメには通じるはずもなく。彼女はそのカモメに向かって小さく手を振ってて、僕はそんな彼女を横目で見ながら、なんだこの平和な時間はって思ってた。
歩いてるうちに、いつの間にか手が繋がってた。どっちから繋いだのか覚えてないんだけど、自然な流れだった気がする。彼女の手は少し冷たくて、でも柔らかくて、握ってるとなんとなく安心した。僕らは特に目的地もなく、ただ海沿いをぶらぶら歩いてた。
メリケンパークのあたりまで来ると、さすがに人が増えてきて、観光客らしいグループが写真を撮ってたり、ランニングしてる人がいたり、犬の散歩をしてる人がいたり。みんなそれぞれの時間を過ごしてる。僕らもその中の一組で、別に特別なことをしてるわけじゃない。ただ歩いてるだけ。
「お腹空いた」って彼女が言ったから、近くのカフェに入った。「ハーバーサイドロースト」っていう小さな店で、窓際の席に座った。僕はホットコーヒー、彼女はカフェラテ。それとサンドイッチを二人で分けた。特別美味しいわけでもなかったけど、悪くもなかった。窓の外では相変わらず風が吹いてて、木々が揺れてた。
食べ終わっても、僕らはしばらくそこに座ってた。次にどこへ行くとか、何をするとか、そういう話は一切しなかった。ただぼんやりと外を眺めて、たまに他愛もないことを喋って、また黙って。そういう時間が、実は一番落ち着くのかもしれないって思った。
結局その日は、港の周りをぐるっと回って、夕方前には帰った。特に何かが起きたわけでもない。記念になるような出来事があったわけでもない。でも、なんだろう。悪くない一日だったなって、今でもたまに思い出す。
風が冷たかったこととか、カモメがじっと見てたこととか、彼女の手が少し冷たかったこととか。そういう小さなことばかり覚えてる…だけど。

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