
神戸の街に春の陽射しが降り注ぐ午後、私たちは元町駅で待ち合わせをした。改札を出ると、すぐ目の前に広がるのは独特の雰囲気を持つ高架下商店街だ。JRの線路を支える無骨なコンクリートの柱が規則正しく並び、その間を縫うように小さな店舗が軒を連ねている。この場所には、神戸という洗練された港町のイメージとは少し違う、どこか懐かしくて温かみのある空気が流れている。
「ここ、初めて来たんだけど面白いね」と連れが目を輝かせながら言った。確かに、高架下という限られた空間を最大限に活用したこの商店街は、初めて訪れる人にとっては驚きの連続だろう。天井は低く、自然光はほとんど入ってこないが、それぞれの店から漏れる明かりが温もりを感じさせる。古着屋、雑貨店、喫茶店、居酒屋、そして名前も知らないような小さな専門店まで、多種多様な店が肩を寄せ合うように存在している。
私たちはゆっくりとした足取りで商店街を歩き始めた。急ぐ必要はない。目的地があるわけでもない。ただ、この独特な空間を二人で味わいたかった。ある古本屋の前で足を止めると、店先に並べられた文庫本の背表紙が目に入った。昭和の匂いがする古い推理小説や、色褪せた旅行ガイドブック。それぞれに前の持ち主の人生が刻まれているようで、手に取るのが少しためらわれる。
「これ、面白そう」と連れが一冊の写真集を手に取った。神戸の昔の風景を集めたもので、今私たちが歩いているこの元町の街も、白黒写真の中に収められていた。高架下商店街ができる前の元町は、もっと空が広く見えたのだろうか。時代の流れとともに街の姿は変わっても、人々の営みは脈々と続いている。そんなことを考えながら、私たちは店を後にした。
商店街を抜けると、視界が急に開けた。小さな公園が現れたのだ。高架下の薄暗い空間から一転、木々の緑と青空が目に飛び込んでくる。ベンチに腰を下ろすと、近くの保育園から子どもたちの元気な声が聞こえてきた。この公園は地元の人々の憩いの場所なのだろう。犬を散歩させる老夫婦、ベンチで本を読む学生、ボール遊びをする親子。それぞれが思い思いの時間を過ごしている。
「コーヒー飲みたいね」という連れの一言で、私たちは再び高架下へと戻った。さっき通り過ぎた小さな喫茶店が気になっていたのだ。扉を開けると、カウンター席だけの狭い店内に、マスターが一人で立っていた。「いらっしゃい」という声は低く、でも温かい。メニューを見ると、コーヒーの種類が驚くほど豊富だった。マスターに尋ねると、自家焙煎にこだわっているという。神戸はコーヒーの街としても知られているが、こんな高架下の小さな店にも、その伝統が息づいているのだと実感した。
運ばれてきたコーヒーは、深い香りとともに、ほろ苦さの中にかすかな甘みを感じさせる味わいだった。カウンター越しにマスターと言葉を交わすうちに、この店がもう三十年以上もこの場所で営業していることを知った。高架下商店街の歴史とともに歩んできた店なのだ。常連客の話、街の移り変わり、そして神戸という街への愛情。マスターの語る言葉の端々から、この場所への深い思い入れが伝わってきた。
喫茶店を出た後、私たちは来た道を引き返すのではなく、高架沿いにさらに歩いてみることにした。商店街のエリアを過ぎると、人通りは少なくなり、住宅地の雰囲気が強くなってくる。それでも高架下という独特の空間は続いていて、所々に小さな店や作業場のようなものが見える。この街で生きる人々の日常が、高架という構造物と共存している様子が興味深かった。
ふと見上げると、高架の上を電車が通り過ぎていく音が響いた。その音は、この街の鼓動のように感じられた。神戸は海と山に挟まれた細長い街だ。限られた土地を有効に使うために、高架下という空間も人々の生活の一部として取り込まれてきた。それは単なる空間の有効活用というだけでなく、この街に住む人々の知恵と工夫の結晶なのだと思う。
やがて私たちは、また別の小さな公園を見つけた。先ほどの公園よりもさらに小さく、ベンチが二つあるだけの本当にささやかな空間だったが、そこには季節の花が植えられていて、誰かが丁寧に手入れをしているのがわかった。高架下という無機質な空間の中に、こうした小さな緑のオアシスが点在していることに、私は何か救われるような気持ちになった。
「また来ようね」と連れが言った。私も頷いた。元町の高架下商店街は、観光ガイドブックで大きく取り上げられるような場所ではないかもしれない。でも、この場所には確かな生活があり、人々の営みがあり、そして時間の積み重ねがある。派手さはないけれど、歩けば歩くほど味わい深い、そんな街の魅力を私たちは発見したのだった。
神戸の街を後にする電車の中で、私たちは今日歩いた道のりを振り返った。高架下商店街の独特な雰囲気、小さな公園で感じた開放感、喫茶店で味わった一杯のコーヒー。どれも特別なことではないけれど、二人でゆっくりと時間を過ごせたことが何より幸せだった。次に訪れるときは、どんな発見があるだろうか。そんな期待を胸に、私たちは神戸の街に別れを告げた。


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