
神戸港の近くを歩いていたら、急に潮の匂いが強くなって、ああ海だなって思った。
彼女が「お腹すいた」って言い出したのは、ちょうど昼過ぎの2時くらいだったと思う。僕らはメリケンパークのあたりをぶらぶらしていて、特に目的もなく、ただ歩いていた。デートって言えるのかどうかも微妙なやつ。約束していたわけじゃなくて、たまたま休みが重なって、じゃあ会おうかって感じで。港の方に行けば何かあるだろうって適当に決めて、電車に乗った。
風が気持ちいい。海風って独特で、街中の風とは全然違う。ベタベタするというか、肌にまとわりつく感じがあるんだけど、不快じゃない。彼女は髪が長いから、風に吹かれるたびに顔にかかって、それを何度も耳にかけ直していた。僕はそれをぼんやり見ていて、別に何も考えていなかった。ただ、いい天気だなとか、歩くのっていいなとか、そういうことを漠然と思っていた。
「あそこのカフェ入ろうか」って彼女が指さした先には、白い壁のおしゃれそうな店があった。でも僕は「もうちょっと歩かない?」って言ってしまった。別に理由があったわけじゃない。ただ、もう少しこの空気の中にいたかった。彼女は「えー」って言ったけど、すぐに「まあいいけど」って笑った。
そういえば去年の夏、友達と神戸に来たときは全然違う場所を歩いていた。三宮の方で飲んで、終電逃して、始発まで公園のベンチで寝たんだった。あれは最悪だった。蚊に刺されまくったし、朝方は寒いし。今日はそんなことにはならない…と思う。
ハーバーランドの観覧車が見える。あれに乗ったことは一度もない。地元の人間ってそういうもので、観光地にあるものほど利用しない。東京タワーに登ったことがない東京の人みたいな。彼女も神戸出身だから、「観覧車乗る?」なんて聞いたら「なんで?」って顔をされるだろう。
波の音が聞こえる。というか、波というより、水が岸壁にぶつかる音。ザザーッていうよりは、チャプチャプって感じ。穏やかな日だから、海も機嫌がいいみたい。船が一隻、ゆっくりと沖の方に進んでいく。貨物船かな。どこに行くんだろう。
「ねえ、あのベンチ座ろう」彼女が急に立ち止まった。木製のベンチが海に向かって置いてある。座ると正面に海が広がって、左手に神戸の街並みが見える。僕らは並んで座った。しばらく何も話さなかった。別に気まずいわけじゃなくて、ただ話すことがなかっただけ。
彼女が鞄からペットボトルのお茶を取り出して、一口飲んでから僕に渡してくれた。「ありがとう」って受け取って飲む。少しぬるくなっていた。太陽の光がキラキラと海面で反射していて、目を細めないと眩しい。
「このまま夕方までいる?」って彼女が聞いた。
「どうしようか」って僕は答えた。
本当にどうしようかって思っていた。予定なんて何もない。夕方になったら夕日が綺麗だろうなとは思う。でもお腹も空くだろうし、ずっとここにいるわけにもいかない。かといって、どこか別の場所に移動する気力もあまりない。こういう中途半端な時間が、実は一番好きだったりする。
カモメが一羽、ベンチの近くに降りてきた。何か食べ物をもらえると思ったのかもしれない。でも僕らは何も持っていなかったから、カモメはすぐに飛んでいった。
彼女の肩に僕の影が落ちていた。太陽の位置がだいぶ傾いてきている。もう3時は過ぎているだろう。時計を見ればわかるけど、見たくなかった。時間を確認した瞬間に、この時間が終わってしまう気がして。
「お腹すいたって、さっき言ってたよね」って僕が言った。
「うん、でももういいや」
「いいの?」
「うん」
彼女はそう言って、また海の方を見た。僕も海を見た。風が吹いて、潮の匂いがまた強くなった。どこかで船の汽笛が鳴った。遠くて小さい音だったけど、はっきりと聞こえた。
結局、僕らがそのベンチを立ったのは、日が傾いて影が長くなってからだった。どこに行ったかは、もう覚えていない。

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