
六甲山の中腹まで来ると、空気が違う。
神戸の街から車で30分も走れば、もう別世界だ。私たちが訪れたのは平日の午後2時過ぎ、観光客もまばらで、オルゴール館の駐車場には数台しか車が停まっていなかった。彼女が「ここ、本当にやってるのかな」と不安そうに呟いたのを覚えている。入口の木製の扉を開けると、ひんやりとした空気と一緒に、どこか懐かしい匂いが鼻をついた。古い木材と、少し湿った石の匂い。
受付のスタッフに案内されて、まず目に飛び込んできたのは天井まで届きそうな巨大なディスクオルゴールだった。金属の円盤が何枚も壁に飾られていて、それぞれに細かい穴が無数に開いている。「これ全部、手作業で穴開けたんですかね」って彼女が聞いてきたけど、私にわかるはずもない。
館内は驚くほど静かで、自分たちの足音さえ気になるくらいだった。展示室をいくつか通り抜けて、ようやくコンサートホールみたいな部屋にたどり着く。そこで定時の演奏会が始まるのを待つことになった。椅子に座って待っている間、彼女はスマホをいじっていたけれど、私はなんとなく周りを見回していた。壁には古いポスターや写真が飾られていて、19世紀のヨーロッパの貴族たちがオルゴールを囲んでいる様子が写っていた。
そういえば、大学生の頃に一人でオルゴール買ったことがある。神戸じゃなくて、京都の骨董市で見つけた小さなやつ。1500円くらいだったかな。ゼンマイを巻いて鳴らしてみたら、音程が微妙にずれていて、なんだか切ない感じがした。結局、半年くらいで壊れてしまって、今はもう手元にない…だけど。
やがてスタッフの女性が現れて、演奏が始まった。最初に鳴らされたのは、ドイツ製の巨大なディスクオルゴールだった。金属の円盤がゆっくりと回転し始めると、空気が震えるような低音が部屋中に響き渡った。思っていたよりもずっと力強い音で、正直驚いた。オルゴールって、もっと繊細で可愛らしい音がするものだと思い込んでいたから。
彼女は目を閉じて聴いていた。
次に演奏されたのは、スイス製の小型のシリンダーオルゴールだった。さっきとは打って変わって、繊細で透明感のある音色。曲はショパンの「ノクターン」だったと思う。ガラスの箱に入った小さな機械が、100年以上前の音楽を今も奏で続けている。そう考えると、なんだか不思議な気持ちになった。
演奏が終わって、私たちはしばらくそのまま座っていた。他の来館者たちはすぐに次の展示室へ移動していったけれど、私たちだけはなぜか動けなかった。彼女が小さな声で「もう一回聴きたいね」と言ったので、次の回まで待つことにした。30分後にまた同じ演奏が始まるらしい。
待っている間、私たちは併設されたカフェに入った。窓からは神戸の街が一望できて、遠くに海も見える。彼女はホットチョコレートを注文して、私はコーヒーを頼んだ。「ブルーマウンテン」って書いてあったけど、正直そこまで詳しくないから違いはよくわからなかった。
「オルゴールって、誰が最初に作ったんだろうね」って彼女が突然言い出した。私も知らない。スマホで調べようかとも思ったけど、なんとなくやめた。知らないままでいい気がした。
二回目の演奏は、一回目よりもゆっくりと感じた。同じ曲、同じ音色なのに、受け取る印象が全然違う。一回目は驚きと興味で聴いていたけれど、二回目は音そのものに集中できた。ディスクの回転する音、ピンが弾かれる瞬間の微かな金属音、そして音と音の間の静寂。
帰り道、彼女は「また来たいね」とは言わなかった。私も何も言わなかった。
山を下りながら、カーラジオから流れてくる音楽が、やけに雑に聞こえた。

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