
六甲山の中腹まで来て、ようやく静かになった。
ケーブルカーを降りてから歩くこと十数分。オルゴール館の入口は思ったより地味で、一瞬通り過ぎそうになったのは内緒にしておく。建物の外壁は白くて、窓枠が濃い茶色。ヨーロッパの田舎にありそうな佇まいで、周りの木々に溶け込んでいる。入館料を払って中に入ると、ひんやりした空気が肌に触れた。外は初夏の陽射しだったのに、館内は別世界みたいに涼しい。
展示室に足を踏み入れた瞬間、時間の流れ方が変わる感じがした。ガラスケースの中に並んでいるのは、どれも100年以上前のオルゴールばかり。木製のキャビネットに収められたもの、金属の円盤がむき出しになったもの、小さな宝石箱みたいなもの。形も大きさもバラバラで、でもどれも丁寧に磨かれていて、誰かの大切なものだったんだろうなって思わせる光沢がある。
ディスクオルゴールの実演が始まったのは、たしか午後2時半ごろだったと思う。係員のおじさんが静かに説明を始めて、金属製の大きな円盤をセットした。直径40センチはあるだろうか。その円盤の表面には無数の突起があって、光の加減でキラキラ反射している。
おじさんがハンドルをゆっくり回し始めると、音が鳴り出した。
最初の一音で、隣にいた彼女が息を止めたのがわかった。私も同じだった。それは「音楽」というより「音の粒」が空間に散らばっていく感じで、一つひとつの音がはっきり聞こえるのに、全体としては柔らかくて優しい。金属が奏でる音なのに、どこか温かみがある。不思議だった。
20人くらい入れる小さなホールで、私たちの他には年配のご夫婦が二組と、一人で来ている若い女性がいた。誰も喋らない。ただ音に耳を傾けている。演奏が終わっても、数秒間は誰も動かなかった。拍手するのも憚られるような、そんな空気。
そういえば、去年の秋に一人でここに来ようとして、結局行けなかったことがある。その日は急に仕事が入って、チケットも買っていたのに無駄にした。なんとなく心残りだったんだけど、今こうして二人で来られたのは、あの時来なくて正解だったのかもしれない…だけど。
展示室の奥には、小さな部屋があって、そこには「自動演奏ピアノ」というものが置いてあった。鍵盤が勝手に動いて演奏する、古い時代の自動ピアノ。これもまた実演してくれるらしい。次の実演まで15分ほど時間があったから、私たちはその部屋の窓際に座って外を眺めた。窓の外には六甲の山並みが広がっていて、木々の緑が風に揺れている。鳥の声が聞こえる。遠くで車のエンジン音もするけど、それすら遠い世界の出来事みたいに感じられた。
「ねえ、オルゴールって何で作られたか知ってる?」彼女が唐突に訊いてきた。知らない、と答えると、「私も知らない」って笑った。スマホで調べようかとも思ったけど、やめた。知らないまま聴く方が、なんとなく良い気がして。
自動ピアノの実演が始まった。鍵盤が勝手に動いて、ショパンの曲を奏でる。誰も座っていない椅子の前で、ピアノだけが演奏している光景は、ちょっと不気味だけど、どこか愛おしい。まるで楽器そのものに魂が宿っているみたいで。演奏が終わると、また静寂が戻ってきた。この館内では、静けさが音楽と同じくらい大事な要素なんだと気づく。
帰りのケーブルカーの中で、彼女が「また来たいね」と言った。私は「うん」とだけ答えた。本当にまた来るかどうかはわからない。でも、今日この瞬間に二人でここにいたことは、多分ずっと覚えている。オルゴールの音色も、あの涼しい空気も、窓の外の緑も。
神戸の街に戻ると、いつもの喧騒が待っていた。人の声、車の音、店から流れる音楽。さっきまでいた場所が夢だったみたいに思えてくる。でも、耳の奥にはまだ、あの金属の音色が残っている気がした。

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