
六甲山の中腹に、時代に取り残されたような建物がある。
正直に言うと、オルゴール館なんて渋すぎるだろうと思ってた。デートスポットとしてどうなんだって。でも彼女が行きたいって言うから、まあいいかと六甲ケーブルに乗って登っていった。11月の午後で、ケーブルカーの窓から見える神戸の街はもう薄暗くなりかけていて、海の向こうまで灰色っぽい光が広がってた。山の上は思ったより寒くて、薄手のジャケット一枚じゃ完全に失敗だったなと後悔しながら、バス停からオルゴール館まで歩いた。途中の木々の間を風が抜けていく音が、やけに大きく聞こえる。
六甲オルゴール館の入り口をくぐると、急に外界と切り離された感じがした。受付のおばさんに案内されて展示室に入ると、そこには想像してたよりずっと大きな機械が並んでる。オルゴールって小さな宝石箱みたいなやつを想像してたんだけど、ここにあるのは人の背丈ほどもあるディスクオルゴールとか、家具みたいに立派な自動演奏ピアノとか、そういう重厚なものばかりで。
「これ、全部動くんですか」って彼女が係員に聞いたら、一日に何回か実演があるって言われて、ちょうど次の回まで10分くらいだった。
待ってる間、展示されてる古いオルゴールのプレートを眺めてた。1900年代初頭、スイス製、ドイツ製。100年以上前の機械が、今でも音を出せるって不思議だよね。そういえば昔、祖母の家にちっちゃなオルゴールがあって、ネジを巻くと「エリーゼのために」が流れるやつ。あれ、今どこにあるんだろう。たぶん実家のどこかに埋もれてる。
実演が始まった。
係員の人が大きなディスクオルゴールの前に立って、金属製の円盤をセットする。直径が50センチくらいはありそうな、穴だらけの円盤。それをゆっくり回転させると、小さな突起が櫛歯を弾いて音が鳴り始める。最初は「ああ、オルゴールの音だな」って思っただけだったんだけど、聴いてるうちに何かが変わってきた。音が空間に溶けていくっていうか、部屋全体が楽器になったみたいな感覚。隣にいる彼女の横顔を見たら、目を閉じて聴いてた。
音楽ホールみたいに響くわけじゃない。むしろ音は小さくて、耳を澄ませないと聞き逃しちゃいそうなくらい。でもその静けさの中で鳴る音だからこそ、一音一音がはっきり聞こえる。外の風の音も、誰かの足音も、全部が遠くなって、この部屋の中だけ時間の流れが違う気がした。
次に自動演奏ピアノが動き出した時は、さすがに驚いた。鍵盤が勝手に動いて、ピアノが弾かれていく。ロールに開いた穴が空気の流れを制御して、それで音が出る仕組みらしい。19世紀の技術でこんなことができたんだって思うと、スマホでSpotify聴いてる自分がちょっと贅沢すぎる気がしてくる。いや、比べるものが違うか。
「ねえ、これ欲しいね」って彼女が小声で言った。「どこに置くんだよ」って答えたら、笑ってた。確かに、こんな大きな機械、ワンルームには入らない。
実演が終わって、また展示室を歩き回る。窓の外はもう完全に暗くなっていて、神戸の夜景が広がり始めてた。オルゴール館の中は暖かくて、さっきまでの寒さが嘘みたい。ガラスケースの中には小さなオルゴールもたくさん展示されていて、中には鳥が動くやつとか、人形が踊るやつとか、凝った仕掛けのものもある。
「昔の人って、こういうの見て魔法だと思ったのかな」
彼女がぽつりと言った言葉に、なんて返したらいいか分からなくて、ただ頷いた。
帰りのケーブルカーの中で、彼女はずっと窓の外を見てた。何を考えてるのかは聞かなかった。聞かなくてもいい気がした。オルゴールの音がまだ耳の奥に残ってる気がして、それだけで十分だった。
山を降りて街に戻ると、いつもの神戸の喧騒が戻ってくる。でも、あの静かな部屋で聴いた音は、たぶんしばらく忘れない。

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