
六甲山の中腹って、思ったより寒い。
ケーブルカーを降りて少し歩くと、木立の間から赤い屋根が見えてくる。六甲オルゴール館。正直に言うと、私はオルゴールにそこまで興味があったわけじゃない。ただ「静かなところに行きたい」って彼女が言ったから、じゃあここはどうかなって提案しただけ。デートプランを考えるのが苦手な私にしては、まあまあ良い選択だったと思う。入館料を払って中に入ると、ひんやりした空気と木の香りが混ざった独特の雰囲気に包まれた。
展示室に入った瞬間、世界が変わった気がした。
外の喧騒が嘘みたいに消えて、代わりに聞こえてくるのはオルゴールの音だけ。ディスクオルゴールっていうらしい、大きな円盤が回転する古い機械が並んでいて、係の人が実演してくれる。最初に鳴ったのは、たぶん百年以上前に作られたっていうドイツ製のオルゴール。金属の櫛が弾かれて生まれる音は、電子音楽に慣れた耳には新鮮すぎて、なんだか胸の奥がキュッとなる。彼女は私の隣で目を閉じて聴いていた。横顔を見ると、少しだけ口元が緩んでいるのがわかる。
そういえば、高校生の頃に祖母の家で小さなオルゴールを見つけたことがある。引き出しの奥に埋もれていた、手のひらサイズの木箱。開けると「エリーゼのために」が流れた。あの時は何も感じなかったけど、今ここで聴くオルゴールの音は、なぜかあの記憶を引っ張り出してくる。不思議なものだ。
館内は本当に静かで、私たち以外にも数組のカップルや家族連れがいたけれど、みんな自然と声を潜めている。オルゴールの音を邪魔しちゃいけないって、暗黙の了解みたいなものがあった。次の実演が始まるまでの待ち時間、彼女が「ねえ、この音って録音できないのかな」って小声で聞いてきた。スマホで録ってみようかとも思ったけど、なんとなくそれは違う気がして、やめておいた。ここでしか聴けない音、ここでしか感じられない空気ってあるんだと思う。
午後三時過ぎの光が、窓から斜めに差し込んでいた。
展示されているオルゴールの中には、宝石箱みたいに装飾が施されたものもあれば、工業製品みたいに無骨なものもある。どれも時代の空気を閉じ込めたまま、今もこうして音を奏でている。ディスクオルゴールの円盤には細かい突起がついていて、それが櫛を弾いて音を出す仕組みらしい。アナログの極致というか、機械なのに温かみがあるというか。説明を読んでもいまいちピンとこなかったけど、実際に音を聴いたら理屈はどうでもよくなった。
彼女が「お腹空いたね」って言ったのは、たぶん四回目の実演が終わった後だった。
館内にある小さなカフェで、私たちはコーヒーを頼んだ。窓際の席に座ると、六甲山の緑が目の前に広がっている。神戸の街は霞んで見えなかったけど、それもまた良かった。コーヒーを飲みながら、さっき聴いたオルゴールの話をした。彼女は「あの大きいやつ、家に欲しいね」なんて冗談を言っていたけど、本気で欲しそうな顔をしていた。ミュージアムショップで売っている小さなオルゴールを買おうか迷ったけど、結局買わなかった。買わない方が、この日のことを特別に覚えていられる気がしたから。
帰りのケーブルカーの中で、彼女はずっと窓の外を見ていた。私も何も言わずに、同じ景色を眺めていた。オルゴールの音が、まだ耳の奥に残っている気がした。あの音は、きっと明日になったら正確には思い出せなくなる。でもそれでいいんだと思う。
音楽って、消えるから美しいのかもしれない。

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