
三宮の駅前で立ち止まっていたら、横を若い子たちが笑いながら通り過ぎていった。
5人か6人か、数えようとした時にはもう遠くて、声だけが残っていた。金曜の夜8時過ぎ。あの時間帯の三宮って、いつもこうだ。人がいるのに寂しいというか、賑やかなのに自分だけ取り残されてる感じがする。彼らは多分、これから居酒屋かカラオケに行くんだろう。スマホの画面を覗き込みながら、誰かが「ここ曲がるんちゃう?」って言ってた。関西弁が混ざると、なんだか距離が近く感じるのに、実際には何の接点もない。
そういえば去年の冬、友達と神戸に来た時も似たようなことがあった。元町のほうまで歩いてたんだけど、途中で道に迷って。スマホの地図アプリが全然役に立たなくて、結局通りすがりの大学生らしきグループに道を聞いた。あの時も、彼らはすごく楽しそうだったな。教えてくれた後、また笑いながら歩いて行った。
私が学生の頃は、こんなふうに街を歩き回ることなんてほとんどなかった。地元から出ることも少なかったし、友達と遊ぶって言っても誰かの家でゲームするくらい。だから今、神戸みたいな街で若い人たちが集まって、声を上げて笑いながら移動してるのを見ると、なんだか眩しく感じる。別に羨ましいわけじゃない。ただ、自分の知らない世界がそこにあるんだなって思う。
あの子たちが通り過ぎた後、ほんの少しだけ香水の匂いが残ってた。甘ったるいやつ。多分、誰か一人がつけすぎてるんだろう。それと混ざって、近くのパン屋から漂ってくるバターの匂い。三宮って、匂いが複雑に混ざり合う街だと思う。海が近いからか、時々潮の香りもする。
賑やかさって、実は音だけじゃなくて、匂いとか光とか、全部が混ざったものなんじゃないかと最近思う。さっきの若い子たちも、笑い声だけじゃなくて、スニーカーが地面を蹴る音とか、誰かのリュックについてるキーホルダーがチャラチャラ鳴る音とか、そういう細かいものが全部集まって「賑やか」を作ってた。
で、その賑やかさが過ぎ去った後に残るのは、なんだろう。静けさ、とも違う。元の状態に戻るわけじゃなくて、何かが少しだけ変わってる気がする。空気が動いた跡というか。
三宮の交差点は信号が変わるたびに人が流れる。その中に、さっきみたいなグループが何組もいて、それぞれが違う方向に散らばっていく。ある人たちは北側の繁華街へ、ある人たちは南側の海のほうへ。私はその流れを眺めながら、自分がどこに向かってるのかよくわからなくなる。
昔、神戸に住んでた友人が「この街は通り過ぎる場所なんだよ」って言ってたのを思い出す。観光客も多いし、学生も多いし、みんなどこかに向かう途中でここにいる。そう考えると、さっきの若者たちも、きっと今日だけここにいて、明日にはまた違う場所にいるのかもしれない。
私も結局、ここに住んでるわけじゃない。たまに来て、歩いて、帰る。それだけ。
でも不思議なことに、通り過ぎるだけの場所のほうが、記憶に残ったりする。毎日いる場所って、逆に印象が薄れていく。神戸の夜の空気感とか、若い人たちの声の響き方とか、そういうのは多分、ずっと覚えてる。
さっきのグループはもう見えない。角を曲がって、どこかの店に入ったか、それとももっと先まで歩いていったか。どっちでもいいんだけど。
また誰かが笑いながら通り過ぎていく。今度は女の子だけのグループ。ヒールの音が不揃いで、それがリズムを作ってる。
神戸の夜は、こうやって誰かの声で満たされ続けてる。私はそれをただ見送るだけ。それで十分な気がしてる。

コメント