
三宮の駅前を抜けると、十二月の冷たい空気が頬を撫でていく。午後七時を回ったばかりの街は、ネオンの光が路面を濡らし、まるで夜が本当の顔を見せ始めたかのようだった。フラワーロードを南へ歩いていると、向こうから賑やかな笑い声が聞こえてくる。
大学生だろうか、四、五人のグループが肩を並べて歩いてきた。女性たちは色とりどりのダウンジャケットを羽織り、男性たちはスニーカーの紐をゆるく結んで、誰もが軽やかな足取りで夜の街を闊歩している。彼らの会話は断片的にしか聞こえないが、それでも十分に楽しげだった。「マジで、あれ最高やったわ」「次どこ行く?」「カフェ・ルシエンナ寄ってこうや」。店の名前が出るたび、また新しい笑いが起こる。
すれ違いざま、一人の女性がスマートフォンを落としかけて、慌てて拾い上げる仕草が見えた。友人たちが「大丈夫?」と声をかけると、彼女は少し照れたように笑って「全然平気」と答える。その一瞬の表情に、若さ特有の無防備さと、それでいて強がりたい気持ちが混ざり合っていた。
私が学生だった頃も、きっとこんなふうに神戸の街を歩いていたのだろう。あの頃は冬の寒さすら気にならなかった。友人と待ち合わせをして、特に目的もなく元町から三宮まで歩き、途中で見つけた雑貨屋に入り込んでは「これ可愛い」と言い合っていた。今思えば、何もかもが輝いて見えていた時代だった。
彼らのグループが角を曲がって視界から消えると、街の喧騒が少しだけ静かになったような気がした。でも実際には何も変わっていない。三宮の街は相変わらず人々で溢れ、居酒屋の引き戸が開くたび温かい空気と焼き鳥の香ばしい匂いが流れ出してくる。
この街には、いつも誰かの「今」が詰まっている。就職が決まった喜びを語る声、失恋の痛みを紛らわせようとする笑い、明日への不安を抱えながらも前を向こうとする足音。若い人たちは、そうした感情を全身で表現しながら、神戸の夜を駆け抜けていく。
私はコートのポケットに手を突っ込みながら、もう一度振り返った。さっきのグループはもういない。代わりに別の若者たちが、同じように肩を寄せ合って歩いている。彼らもまた、この街のどこかへ消えていくのだろう。
ふと、自分のスマートフォンを取り出してみる。画面には未読のメッセージがいくつか並んでいたが、返信する気にはなれなかった。今はただ、この街の空気を吸い込んでいたかった。冷たい風が運んでくる、コーヒーの香りと、どこかの店から漏れてくる音楽と、人々の声が混ざり合った、神戸らしい匂い。
三宮という場所は不思議だ。ここには常に人が集まり、常に誰かが通り過ぎていく。出会いがあり、別れがあり、それでも街は変わらずそこにある。若者たちはこの街を舞台に、それぞれの物語を紡いでいる。
私が歩みを再開すると、また新しいグループとすれ違った。今度は五人組で、全員がイヤホンを片耳だけに挿して、何かの曲について熱く語り合っている。「あのサビのところ、ライブで聴いたらヤバかったで」「わかる、鳥肌立ったわ」。彼らの声は遠ざかっていき、やがて街の雑踏に溶けていった。
歳を重ねるということは、こうして誰かの輝きを見送る側に回ることなのかもしれない。でも、それは決して悪いことではない。かつて自分もそうだったように、今の若者たちもいつか同じ場所に立つ。そして新しい世代の輝きを、温かい目で見守るようになるのだろう。
神戸の夜は、そうした時間の流れを優しく包み込んでくれる。賑やかに過ぎ去っていく若い人たちの姿は、この街の活力そのものだ。彼らがいるから、神戸は生き続ける。笑い声が響くから、街は息をしている。
私はもう一度、冷たい空気を深く吸い込んだ。そして、自分もまたこの街の一部なのだと、静かに感じていた。

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