
須磨海岸を訪れたのは、七月の終わりだった。梅雨が明けてから二週間ほど経ち、海水浴客で賑わう季節の真っ只中。朝の九時過ぎ、まだ日差しが優しい時間帯に砂浜へ降り立つと、潮の香りと磯の匂いが混ざり合った独特の海の香りが鼻腔をくすぐった。子どもの頃、祖母と一緒に訪れた海辺の記憶が不意によみがえる。あの時も、こんなふうに少し湿った空気が肌にまとわりついていた。
砂浜には、すでに場所取りをする家族連れの姿がちらほらと見える。色とりどりのパラソルが花のように開き、クーラーボックスを抱えた父親たちが陣地を確保していく。波打ち際では、早くも水着姿の子どもたちが歓声をあげながら波と戯れている。その光景を眺めながら、私は海岸沿いの遊歩道へと足を向けた。
神戸という街は不思議な場所だ。山と海に挟まれた細長い土地に、都会的な風景と自然が同居している。須磨海岸もそのひとつで、夏の数ヶ月は海水浴場として多くの人々で賑わうが、それ以外の季節は静かな散歩道として地元の人々に愛されている。私が好きなのは、むしろその静かな時間帯の須磨だ。波の音だけが聞こえる早朝や、夕暮れ時に染まる空を眺めながら歩く遊歩道。人混みの中にいても、ふとそんな静けさを思い出すことがある。
砂浜を歩いていると、足の裏に伝わる砂の感触が心地よい。乾いた砂はさらさらと指の間をすり抜け、波打ち際に近づくにつれて湿り気を帯びて重くなっていく。時折、小さな貝殻が足の裏に当たって、思わず立ち止まって拾い上げる。白く漂白された巻貝や、虹色に光る二枚貝のかけら。それらを手のひらに乗せて眺めていると、時間の流れが少しだけゆっくりになる気がした。
海岸沿いのカフェ「マリンブルー須磨」で、アイスコーヒーを注文した。店員さんがグラスを渡してくれる時、氷がカラカラと涼やかな音を立てる。窓際の席に座り、海を眺めながら一口飲むと、冷たさが喉を通って体の芯まで染み渡った。ここから見える景色は、砂浜とは少し違った表情を見せる。高い位置から眺める海は、より広く、より深い青に見える。
隣のテーブルでは、若いカップルが地図を広げていた。女性が指で何かを示しながら話しかけると、男性がうなずきながらスマートフォンを操作している。その仕草がどこか微笑ましく、思わず目を細めてしまう。旅行中なのだろうか。神戸という街は、観光で訪れる人にとっても、暮らす人にとっても、それぞれの顔を見せてくれる場所だ。
午後になると、日差しが本格的に強くなってきた。砂浜の熱気が立ち上り、陽炎のように空気が揺らいで見える。海水浴客はさらに増え、浮き輪やビーチボールが色鮮やかに波間を漂っている。私は再び遊歩道へと戻り、木陰のベンチに腰を下ろした。目の前を、ランニング中の男性が汗を拭いながら通り過ぎていく。その後ろ姿を見送りながら、ふと自分も走ってみようかと思ったが、この暑さではとても無理だと即座に諦めた。
夕方近く、潮が引き始めた砂浜を再び歩いた。濡れた砂の上には、私の足跡がくっきりと残る。振り返ると、その足跡が波に消されていくのが見えた。何度も何度も、足跡は刻まれては消えていく。それは儚いようでいて、同時に何か確かなものを感じさせる光景だった。
神戸の夏は、須磨海岸の賑わいとともにやってくる。そして夏が終われば、また静かな散歩道へと戻っていく。その繰り返しの中に、この街の呼吸があるのかもしれない。海の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、私はゆっくりと家路についた。帰り道、砂が靴の中に入っていることに気づいて、ベンチに座って靴を脱いだ。思った以上に大量の砂が出てきて、少し恥ずかしくなりながらも、それもまた海辺での一日の証だと思うと、不思議と嬉しくなった。ポケットには、拾った貝殻がいくつか入っている。家に帰ったら、小さな瓶に入れて窓辺に飾ろう。そうすれば、冬の寒い日にも、この夏の記憶を思い出せるだろうから。


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